大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和31年(あ)784号 決定 1957年3月28日

上告人被告人

伊藤宏

外三名

弁護人

佐伯静治

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人佐伯静治の上告趣意は、違憲をいうが、その実質は、事実誤認、単なる法令違反の主張に帰し、刑訴四〇五条の上告理由に当らない。(原事実審が適法に確定した事実関係の下において、被告人等の所為が労働組合法一条一項の目的達成のためにする正当行為であると認めることができないとした原判決の判断は正当である。されば、原判決が被告人等の所為に対し同法条二項を適用しなかつた第一審判決を是認したことも首肯できる。)

よつて同四一四条、三八六条一項三号により裁判官全員一致の意見で主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 斎藤悠輔 裁判官 入江俊郎 裁判官 下飯坂潤夫)

(弁護人佐伯静治の上告趣意)

原判決には憲法(並に法令)の解釈適用の誤りがある。

(一) 原判決は「かかる被告人等の脅迫による不法監禁の所為が、労働組合法第一条第一項の目的達成のためにする正当行為であると認めることができないこと、前段説示に照し明らかである。されば、使用者側に責むべき点があつたと否とを問わず、原判決が本件争議行為の正当性を否定し、労働組合法第一条第二項の規定を適用しなかつたのは相当であつて、所論のような事実誤認及び法令適用を誤つた違法はない」と判示しているが、この判断は労働組合法第一条第二項、ひいては憲法第二八条の解釈適用を誤つたものである。

(二) 労働組合法第一条第二項にいう正当な行為とは相対的・流動的なものである。「第二項は、憲法第二八条の団結権保障に関する規定の具体化であるから、この法律の目的の範囲内における争議行為として『正当なもの』については、刑事責任を問題としないのは当然である、という趣旨を定めたものと解せらる。しかして争議行為は、集団的・流動的な事実行為である限り、争議行為が実質上ある程度使用者の業務妨害の効果を有し、また職場占拠、住居侵入その他ある程度の実力行使を伴うことは避けがたいところであるが、これについて一般刑罰法規を適用することは、争議行為そのものを否定する結果となる。したがつて争議行為に必然的に随伴するこれらの事態は、明らかに暴力的行為にわたらないかぎり、一般刑罰法規により罰してはならないというのが、この条第二項を、わざわざ自明のような文言をもつて規定した趣旨である。」(菊池勇夫、林〓広、法律学体系コンメンタール篇「労働組合法」四〇頁)。従つて、「正当性を判断するについては、労働組合の行為特に争議行為は使用者との対抗行為であり、かつ集団的・流動的な性格をもつものである点に着目し、憲法第二八条およびこの法の趣旨と、刑罰法規の趣旨とを勘案して決定すべきである。」(同書三五頁)。このように、「積極的実力行使」は常に許されないとする原判決の解釈は誤りである。勿論さればといつて如何なる「積極的実力行使」も常に許されるとも考えてはいない。それが如何なる程度に許されるかということは、右に述べたような点に着目し、具体的場合毎に判断しなければならない。この具体的な態様を無視して、常に固定的に争議行為の手段、方法の正当性の範囲を限ろうとする考え方は、往々労働組合の側にのみ不利益を強いる結果となり、労働組合法第一条第一項に明定する斯法の根本理念であり、且つ基本的な目的である労使対等の立場を失わしめ、労働組合の団結権を不当に圧迫する恐れが多分にあると云わねばならない。このような争議行為の正当性を認定するに当つて考慮すべき要素としては、たとえば、使用者側に責むべき事由があつたかどうか(責むべき事由とは、いうまでもなく、違法行為というに限られず、社会的に非難される行為、争議のルールに外れた行為等をも含む)、暴力行為があつたかどうか、労使双方の得喪する利益の性質、程度、緊急性の有無、程度、争議の全体としての状況等が一応考えられる。もとより具体的場合毎に考えられるべきことであるから、この要素を限定的に列挙することもできないし、また、これらの要素の一つが欠缺すればそれだけ正当性の巾が縮減するという程機械的なものでもないが、ともかくこのようないろいろな諸要素が充分考慮せられるべきである。

右のように争議行為が対抗的・流動的なものであることを考慮するときは「争議行為の正当性の問題を考える場合に考慮に入れなければならね一つの重要な要素は、その行為をひきおこすについて使用者側に責むべき事由がなかつたか、どうかということである。たとえば、ストライキ労働者の切りくずしのために使用者が労組法七条三号の不当労働行為――労働組合の結成・運営に対する『支配・介入』――の挙に出ることは、しばしば見受けられる。……使用者側がこういう違法行為に出た場合に、労働者側が、これに対抗してストライキを防衛するために、ある程度の強硬手段に出ることは、自救行為として、あるいはいわゆる『緊急状態行為』として、許容されなければならない場合が多い。むろん、使用者側の右のような違法行為に対して、労働者側には、れいの不当労働行為『救済』手続を利用してこれを争う権利――理論的には――がみとめられている。けれども、労働争議というものの性質からいつて、『救済』を得るまでに何カ月もかかるこのような方法が、ストライキ権ないし争議権の防衛手段として、現実的意義を有しえないことは明らかである。従つて、労働者側としては、現実的には、使用者側の違法行為に対抗して、自力をもつて(事実上の行動をもつて)ストライキ権を防衛しなければならね立場におかれるわけである。こうした場合には、使用者側にそのような違法行為のない場合に比べて、労働者側の争議行為の『正当』とみなさるべき範囲が拡張されることは当然なのである。

右にあげた使用者側の労組法七条三号違反の行為というのは、前記、使用者側の『責むべき事由』の一つの例である。その他、使用者側が労働協約中の争議に関する協定に違反したとか、正当の理由なしに組合側の団体交渉の申出を拒否したとかいうような場合にも、右にのべたところと似たシチユエーシヨンが生れる。」(磯田進、岩波新書「労働法」二版一八〇―一八二頁)、従つて会社側に責むべき事由があるか否かは、労働者側にそれに対抗する争議行為がどの程度許されるか、いい変えれば労働者の争議行為の正当性の限界を認定するのに考慮すべき重要な要素の一つなのである。

(三) そこで、原判決のいう「使用者側に責むべき点」をも含めて、本件の背景、原因、動機を見ると、これは、原審控訴趣意書第一点に詳細に述べられており、またその要点は、原判決(控訴趣意第二点についての判断)に摘記されているが、

(1) 本件は昭和二八年の全国的な企業整備反対斗争の一環として起きた事件であり、当時行われた企業整備は資本の利益を首切りと労働強化によつて守ろうとするものであつて全国の炭鉱労働者が強く反対せざるを得ないものであり、殊に本件茶志内鉱業所においては、三人に一人という大整理であり、また名は希望退職であつても解雇と同様になりかねない情況であつたので、労働者にとつてもつとも身に迫る切実な問題であつた。(富田証言)

(2) 本件の直接の原因となつたのは、いわゆる「野村事件」であつて、野村勤労課員が、企業整備反対の示威運動に参加した組合員の主婦の氏名を調査したことであるが、(a)野村事件はそれによつて不当な首切、不当な勧告が行われはしないか、また組合員に対する重大な人権じうりんであるということで、組合員に対し重大な衝撃を与えた(富田証言)。(b)しかも野村の行為は会社の不当な労務管理政策の現れであつて一野村の個人的・偶発的の行為ではない(塩田、渋谷証言)。(c)これに処する会社の態度は全くその場逃れの事勿れ主義に終始し何ら誠意が見られなかつた(富田、田中、塩田証言)。(d)会社の不誠意により団体交渉による解決の機会が失なわれていた(富田証言)。(e)塩田課長(渋谷課長代理は野村問題の直接の責任者であつた。(塩田証言)

(3) 野村事件に現れたような会社の不誠意、不信義は会社のふだんからのやり方であり、これについて当時組合員は大きく憤激していた(富田、猪狩、渋谷証言)。(a)その一つは就業規則改正問題(富田、猪狩、渋谷証言)。(b)もう一つは希望退職の受附、特別退職金の支給の問題であり(富田、渋谷、塩田証言)。(c)会社は口ではやらないようにいい乍ら陰では不当行為をやり、それがばれれば組合に謝ればいいというような不誠意、不信義をくり返していたので、通常の労使間のルールによる解決を著るしく困難にしていた。(富田証言)

(4) さらに本件当日における塩田、渋谷(殊に塩田)の行動を見ると、全く不誠意な行動であつて、現場にいた組合員大衆が憤激したのはまことに当然であつた。(塩田証言、被告人伊藤の検察官に対する第一回供述調書)

本件はこのような背景、原因、動機の下に発生したのであつた。

(四) そこで、一方被告人等組合員の行動を見ると、原判決は本件所為を「脅迫による監禁」であるとしている。もとより、原判決の事実の認定はそれ自体甚だ誤まつているのであるが(控訴趣意書参照)、一応原判決の認定する事実によつても、被告人の所為は労働者の団結力の示威であるに他ならない。本件の場合、暴行は勿論のこと暴力的行為のなかつたことは判示事実を見てもまことに明かである。判決は、被告人等が大衆とともに塩田課長等の周囲にスクラムを組み或は周囲に人垣を作つたりしたことをあげているが、多勢の組合員が集るのであるから自ら人垣になることは当然であり、またスクラムも、労働者にとつてスクラムとは団結の示威であつて必ずしも実力行使することを意味するわけではない。たとえば、メーデーの示威行進でスクラムを組んだり、甚だしきは、舞台でコーラスをやるときさえスクラムを組むことは公知のことであろう。その他の所為としては「交互に右大衆を指揮して、スクラムを組んでいるものを交替させたり、労働歌を高唱させたり、“ワツシヨ、ワツシヨ”と掛声をかけて同課長等の周囲を駈け廻らせたり、或は自らスクラムに参加したりして、気勢をあふり」という行為をあげているが、これらの行為は判決もいうように「気勢をあふる」行為にすぎないのである。そうすると、これらの所為は通じて団結力の示威にすぎないものというべきである。もし、これらの所為を一般の社会のできごと(たとえば愚連隊と一市民との間の)として見るならばそれは行きすぎであり、相手方に相当な脅威を与たであろう。しかし、被告人や他の組合員等と相手方たる塩田課長等とは同じ職場で働き同じ社宅に住み時あらば坑内で生死を共にするという関係にあるのであるから、行きずりの暴漢に対するとは異なつて、そこに自ら行動の統制と限界とについての信頼が存する。従つて相手方に与える脅威もまた自ら異なるものがあるはずである。殊に本件の行われた場所は鉱業所事務室の前であつて、室内には相手方の同僚、部下たる職員(炭鉱の場合は、本件の場合もそうだが職員と鉱員の区別があり、職員は鉱員の労働組合に加入していない)が多数執務しており、二人だけが孤立したり外部と遮断されたりしていたわけでもないのであつて、この点からも相手方に与えた行為はそんなに多くはなかつたはずである。はたして、これら職員は本件の情況を目の当り見ながら、困つたことになつたとは思つたが別に措置はしなかつた(広沢証言)、上司に報告したり処置をとるような事は考えなかつた(根塚証言)というのであるがこの両証人は塩田課長、渋谷課長代理の直接の部下である勤労課員なのである。このようないわば被害者側ともいうべき人達から見ても、本件はこのような程度にしか感ぜられなかつたわけである。本件の程度を具体的に示す貴重な証言であつて、会社側にとつてさえ困つたことではあるが、さりとて特別の措置を要しないで、労使の間の自主的な解決に委ねれば足りることだつたのであり、いい変えれば、反則ではあるかも知れないが、なお土俵の外に出てはいない、土俵の上の争だということなのである。そこはまだ刑罰を持ち出すべき場合ではないのである。

(五) 以上のように、本件の背景、原因、動機と、被告人等の行動とを前述の労働組合法第一条第二項の法意に照して考え合わせるならば本件の如き具体的事情の下においては被告人等の行為はいまだ以て労働組合法第一条第二項にいう正当の行為の範囲を逸脱したものということはできない。それなのに、原判決が「使用者側に責むべき点があつたと否とを問わず」として漫然と正当行為たることを否定したのは、労働組合法第一条第二項の解釈適用を誤まり、ひいては憲法第二八条に定めるところの団体行動権の保障の解釈適用を誤つたものである。

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